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この作品はイベントで無料配布した、
春香学園生徒会副会長『諏訪 蓮(すわ れん)』と
学園保険医『宮原 和樹(みやはら かずき)』の、
本編より2年前のスピンオフ小説です。

【諏訪 蓮(すわ れん)】… このお話の主人公。春香学園1年。
のちの2年後、学園の生徒会副会長となる。成績優秀、クールで眼鏡な知的派。
【宮原 和樹(みやはら かずき)】… 春香学園保険医。神経質で気むずかしい性格。
いつもイライラしている様子。私生活は謎に包まれている。
【日野 郁也(ひの いくや)】… 春香学園1年。
のちの2年後、学園の生徒会長となる。俺様で裏表のない素直な性格。蓮とは幼馴染。


——今日も、雨が降っている。

 こういう日は、本当に駄目だ。そもそも、朝の目覚めからして、間違っている。目が覚めると同時に激しい頭痛。それをもって、雨が降っていることを知るという、不愉快な連鎖。つくづくこの体質が嫌になる。

 教室の窓から外を眺め、諏訪 蓮は、鬱屈した気分でため息をこぼした。

 そもそも、低気圧が押し寄せてくると、空が晴れていても頭痛という形で訴えてくるから、天気予報を見る前に翌日の雨模様が容易に想像出来てしまう。

 そうなったのは、いつからだったか……もう、中学に入ったときにはそうだった気がする。

 こめかみに指を当て、トントンと数回叩く。何とか痛みから逃れたく、まるでまじないのように、その動作を繰り返す。

「何だ、蓮。また頭痛か?」

 そう声を掛けて来たのは、小学生の頃からの腐れ縁・日野 郁也だ。もう定番になっている俺の仕草を見て、苦笑いを浮かべている。

「保健室で薬もらってきたらどうだ? 薬飲むの嫌なのはわかるが、そんな様子じゃ授業に身が入らねぇだろ?」

 出来ればギリギリまで我慢したいところではあるが、確かにこれでは授業どころではない。

「お守り代わりに痛み止めを持ち歩いたらどうだ? いつでも飲めるって思えば、頭痛も和らぐかも」

 ハハッと軽快に笑う郁也に、蓮は深いため息を返す。

「カフェイン飲むといいんだろ? 購買で缶コーヒーでも買って飲めよ。あ、あと患部を冷やさなきゃだから、さっさと保健室に行くべきだな」

 いつも通りの『低気圧による偏頭痛の対処法』を披露され、蓮は首を横に振った。

「大きな音も良くないんだったな。お前の脳天気な声が頭に響く」

「何だって? そりゃ重傷だ。こんな普通に話してんのにうるせぇとかねーよ」

 そこで大笑いされ、蓮は頭を抱えてテーブルに頬杖をつく。頭痛が激しくなってくる。

 いつでも健康優良児な郁也に、自身の体調不良を本当の意味で理解してもらおうとしても無理だろう。そもそも、寝付きも良くないから、万年の睡眠不足である。寮で同室の郁也が「寝る」と言ったら、速効眠りに落ち、そのまま朝まで爆睡状態なのを、どれほど羨ましく思っているかなんて知る由も無いだろう。

「——保健室に行く」

 それだけ告げ、蓮は立ち上がる。

「おう、ノートは任せろっ!」

 元気に言った郁也に、

「お前のノートは見づらいから結構だ」

 そう答えて、教室を出て行った。

 

 

 保健室に行こうと思いつつ、蓮はまず購買へと向かう。缶コーヒーを飲んで、痛みを和らげばいいと思ったからだ。

 蓮たちの通う春香学園は、比較的自由な校風で、それほど教師たちも厳しくはない。それは生徒たちの質が良いせいもあるだろう。寮を完備し、集団生活をしている生徒が多い為か、比較的団結力も高かった。進んで悪いことをしようという生徒もおらず、良く言えば手のかからない生徒が多いのもこの学園の特徴だ。

 その中で、主席入学をした蓮にとっては、この学園の授業は若干退屈なものであった。春香学園も決してレベルの低い学校ではなく、そこそこの偏差値ではあるが、勉強だけで言えば、トップクラスの高校・大学へ行けるレベルであるため、蓮には物足りない授業内容であることを否めない。

 自主的に勉強をしていることもあり、授業を受けなくても、主席を逃すこともないだろう現実があるため、より一層授業には身が入らない。

 そこに来てこの頭痛である。とてもじゃないが、教室でのんびり授業を受けては居られない。まったく身勝手な話であるが、真っ当な理由付けをして保健室に行けるこの偏頭痛には、睡眠不足気味の蓮には、有り難くもあった。

(そもそもが睡眠の質が悪いことが頭痛の原因にもなっているから、まずはそこから改善する必要があるが……)

 購買に着いた蓮は、自販機の前に立つ。どれにしようか暫し悩んだ後、コインを投入し、ブラックコーヒーを購入する。そして、プルトップを上げ、半分ほど一気に飲んだ。

「はぁ……」

 そこでため息ひとつ。缶コーヒーを額に当て、暫しの癒しを得る。ヒンヤリと冷えた缶が一瞬だが頭痛の苦しみを逸らしてくれる。

 蓮は悩んでいる。保健室に行くべきかどうか。

(臨時で利用する場所だ、頻繁に利用する場所ではない)

 そう思って自重しているものの、梅雨入りしてからはそうは言っていられない。日参しているのでは、と思うほどに保健室に行っている気がする。

 そこで、蓮は更に思い悩む。

(郁也の言う通り、鎮痛剤を携帯するべきかも知れない)

 しかし、そうすぐに薬には頼りたくないというのもあった。確かに持っていれば安心だが、そうすると、すぐに薬に頼り、結構な消費量になってしまうのも事実だ。痛みを我慢することはないと飲み続けたら、百錠入りを一ヶ月で1箱消費してしまったこともあった。そうしたら、鎮痛剤が余り効かなくなってしまい、いよいよ持って我慢する方向へとシフトすることになった。

(それでも、月に数回は世話になっているんだが……)

 だから、数回分携帯していれば良い。それはわかっている。だが、蓮は敢えてそうしていなかった。

(そうだ、そうしていつでも飲めるようにしてしまえば、また薬に頼りっぱなしになってしまうだろう)

 だから、鎮痛剤を持ち歩かない。そう、蓮は決めた。だが、同時に別の理由も頭を掠める。もし、薬がなければ、保健室に行くことになる。そう、蓮は、保健室に行くことをどこかで望んでいる

(違う……、そんなことはない)

 それ以上考えようとすると、頭痛がひどくなるので、蓮は思考を停止する。

 残りのコーヒーに口を付けながら、蓮はどうしようか考える。保健室に行くべきか、行かざるべきか……。

 そこで、授業開始のチャイムが鳴った。これから教室に戻ると、授業の邪魔をすることになる。そこまでして受けたい授業でもない。だからそれは、避けたい事態である。

「保健室に行くか」

 やっと理由を得られたとでも言うように、早足で蓮は保健室へと向かった。

 

 

 初めて保健室に行ったのは、なんと入学式当日だった。

 その日はそもそも体調が良くなかった。入学式だから緊張したのかもしれない。例によって朝からの偏頭痛で、吐き気までしてきて、ひとまず入学式中は耐えたが、その後はもう我慢の限界に達し、仕方なく保健室のドアを叩いた。

 女医でも居れば張り合いもあるものだと言うのに、そこに居たのは、男だった。見た目から神経質なのだろうと伺える線の細さと、不愉快そうな表情が印象的だった。その切れ長の瞳と白い肌が、保険医に相応しくないのではと思わせるほどに不健康に映り、何だか可笑しかったことを思い出す。

 保健室の主・宮原 和樹が笑っているのを蓮は見たことなかった。いつでも不機嫌で、苛々しているように見えた。だが、逆にそれが新鮮で、蓮は和樹に興味を抱く。どんな人なんだろう、と。

(宮原は、あれで結構心配性なところがある)

 まともに目を見て話もしない癖に、食生活や睡眠時間について気にしてくれたりする。保険医としては当然のことかもしれないが、それでもその細かな気配りに蓮が感動を覚えたことは事実だ。

 口調はぶっきらぼうなのに、優しさを感じることがある。それはきっと、そうした何気ない気遣いのせいだろう。

(そう言えば、俺は宮原のことを何も知らない)

 保険医であることと、名前と後は見てわかる性格くらいか。基本的に蓮は自分からは話しかけないし、和樹も必要なこと以外は聞かないし、言わない。それで何も支障なかったが、はて、こうして思い返してみると、他の人より多く接しているのに、彼のことを何も知らない。年齢も、家族構成も、どこに住んでいるのかもわからなかった。

(そう言えば、結婚しててもおかしくないよな)

 くたびれた表情から、そこそこの年齢に見える。もしかしたら、子どもも居るかも知れない。そんなことを思ったら、何だか驚きとショックを隠せない。

(何だろう、これは……)

 その、言葉に出来ないもやもやとした感情に、ズキンと頭が疼く。そうなるともう、それ以上の思考を停止せざるを得なかった。

(別に、宮原のことなんて、どうでもいいだろう)

 正体不明のミステリアスな保険医。まぁ、魅力を感じなくもないが、相手をするとなったらさぞ大変だ。できれば遠慮したい。そうだ、ああいう手合いは、関わらない方が懸命だ。

 そう思うと同時に、チリチリと右のこめかみ部分が痛む。

(いつものこととは言え、腹立たしい……)

 これ以上の思考は無駄だと答えを出すと同時に、蓮は保健室の前に着いた。早く鎮痛剤をもらって休もうと、蓮はドアに手を掛ける。

「ん……?」

 少し開いていた扉から、室内の様子が伺える。仕事中なのだろうか、眼鏡をして、机に向かっている和樹が見えた。

(結構真面目に仕事もしてるんだな)

 和樹といえば、いつも面倒くさそうに偉そうな態度で座っている姿しか思い浮かばない。そんな彼とはギャップを感じ、つい蓮は和樹を凝視してしまう。

 その端正な顔立ちは、結構好みであった。そういえば、かつて憧れた部活の先輩はあんなだったか、なんてことを思い出したりする。今でこそ年齢なりの体格になったが、昔は体力もなく、ベッドに伏していることも多かった。今もそのきらいはあるが、それでも幾分かはマシになった。

(結構良い体してるんだな……)

 チラリと見える首筋から胸元にかけてのラインを見て、さぞ触りがいがありそうだと考える。

「ふぅ……」

 和樹はため息と同時に眼鏡を外し、机に置いた。そして背もたれに身を預け、グッと伸びをした。こめかみを指で押さえてギュッと目を瞑る。

 如何にも疲れている、といったその行動に、蓮はクッと喉を鳴らす。何というか、わかりやすい態度を取る人である。そんなところは好感度が高いな、なんて思った。

 そして、和樹は再び大きく息を吐き、机に手を伸ばす。眼鏡を取るのかと思ったが、そうではなかった。彼は、隅に置いてあったスマートフォンに手に取った。

 何をするのか、興味津々で蓮はその様子を観察した。そんな蓮の視線に気付くことなく、和樹はスマホ画面を指でなぞって操作している。

 彼は何を見ているのだろう——蓮は、気になって更に和樹を見つめてしまう。彼には、それほど夢中になって見るものがあるんだろうか? メール? 写真? ニュースか何かだろうか。ここで、こうして見ている自分に気付くことなく、和樹を夢中にさせているのは何なのだろう、と蓮はその対象へと激しい嫉妬心を覚えた。

「え……?」

 その瞬間、和樹は驚いて小さく声を上げた。和樹の顔に笑みが浮かんだからだ。

(何を見て、笑ってるんだ?)

 わからずに蓮は硬直してしまう。そんな和樹の様子をにただただ驚愕した。まだ出会って3ヶ月に満たないが、それでも頻繁に会っている方だと思ったのに、一度だってあんな笑顔を見たことはなかった。そんな笑みを浮かべている和樹に蓮は心を奪われる。

(何を見てるんだ、宮原は)

 和樹の表情を和らげたスマホの画面が気になった。だから蓮は、素早くかつ静かに扉を開き、早足で和樹の後ろに立った。そして携帯の画面を覗き見る。

 そこには、美しく中世的な顔をした少年の写真が映し出されている。見覚えのない顔だ、少なくともうちの学校には居ない——そう思って、蓮は顔を顰める。

「だ、誰だ!?」

 その瞬間、ビクッと体を震わせ、和樹が振り返る。





「何だ、諏訪か……。どうした、また頭痛か?」

 いつもの不機嫌な顔に戻って、警戒心を露わにする和樹に、蓮は眉をひそめ、ため息をついた。

「それ、誰です?」

 和樹からの質問には答えず、蓮は逆にそう質問を投げかける。その言葉にハッとして、和樹は慌ててスマホの画面を閉じる。そして、

「お前には関係ない」

 取り付く島もなく、スマホを白衣のポケットに仕舞ってしまう。そして、苛立った口調で和樹は言った。

「薬は? どうせ、また頭痛なんだろう?」

 蓮の答えを待たず、和樹は薬箱から鎮痛剤を出す。

「程々にしろよ」

 そうして水を用意し、薬と一緒に蓮へと渡した。

「その水、全部で飲み干せよ」

 何度もここで薬を飲んでいるというのに、和樹はいつも通り同じ忠告する。

(……いつも通りの宮原だ)

 だからこそ、おかしい。自分の知っている宮原は、こうした人間だ。さっき見たような笑顔を浮かべるような人物ではない。そんな宮原は、知らない——

 そう思うと、何故か無性に知りたくなる。俺の知らないこの人は、どんな人なのだろう、と。

 さっきの写真の人物との関係も気になる。この気難しい顔を浮かべている人物を、あんな和らいだ表情に出来るなんて。あいつは、誰なんだ?

(何だ、これは。この感情は——いったい)

 そう自身に問うも、考えるまでもなかった。これは嫉妬だ。蓮は正直、驚いた。まさか自分が、誰だかわからない人間に対して、こんな詰まらない嫉妬を覚えるなんて。

 自分の中に生まれた感情に、蓮は戸惑いを覚える。今までだって嫉妬をしたことはある。でも、まさか宮原相手に、こんな気持ちになるなんて。まるで宮原を取られたような、そんな勝手な感情を抱いて、更に見ず知らずの人間に嫉妬するなんて。これは、いったいどういうことなんだ。

 そこまで考えたら、またこめかみ部分が痛み出す。これではまともな思考は期待出来ない。蓮は、和樹に渡された薬を口に放り、コップの水を飲み干した。

「休んでいくか? まぁ、薬が効くまではゆっくりした方がいい」

 そう言って、和樹はベッドの支度をする。その無駄のない動きを見ながら、蓮は思う。

(そうだ、宮原の見た目は、結構好きかもしれない)

 けれど、中身に関しては本当に何も知らない。その、人を寄せ付けない態度が、蓮の心を刺激している。つっけんどんな態度も、その言葉や仕草に隠れる優しさで中和されてしまう。本当に冷たい訳ではない、と思わされてしまうのだ。そう、蓮にとって、和樹の態度は心地良かった。

(何だ、この感覚は)

 好感を抱いている、むしろ気持ち良く思っている。だから、頭痛で辛くなったらここに来たい。むしろ、そのために薬を持ち歩いてないのだと嫌でも気付かざるを得ない。

 まるで、この感情は——そう……。

「さっきのスマホの写真、誰ですか?」

「あ? お前には関係ないって言ってるだろう」

 苛々と不機嫌な様子を丸出しで、和樹は勢い良くベッド前のカーテンを開く。

「関係はありませんが、先生、随分と嬉しそうな顔してたので」

 真っ直ぐに和樹を見つめてそう言うと、和樹は顔を顰めて蓮を睨み付ける。

「嬉しそうな顔? そんな顔はしていないっ」

「いえ、してましたよ。先生をそんな顔にさせるのは誰なのかと気になりまして。中性的な綺麗な子でしたね」

 それを聞いて、和樹は目を見開いて歯ぎしりする。

「なんだ、諏訪……、もしかしてお前、こいつのことを」

 好きなのか——そう言われ、蓮はフッと笑った。

「さすがにチラッと一瞬写真を見ただけの相手には惚れませんよ」

 それに、確かに中性的な人物だったが、アレは男だ。同性でも、興味を引かれる相手がいるのは否定しないが、無節操に惚れたりなんてしない。

「それならいい。余計なことを気にせず、早く寝ろっ!」

 和樹は強引に蓮をベッドへと寝かせてしまう。

「取り敢えずこの時間はゆっくり休め。お前、顔色悪いぞ。ちゃんと食事をしているのか。今度その辺りをじっくりカウンセリングしてやらないと駄目だな」

 呆れたようにそう告げて、和樹は勢い良くカーテンを閉めた。そうして、和樹は再び椅子に座ったようだ。静かな室内で、時計の音と窓の外から雨音が響く。その不協和音に蓮はまたチリチリと痛む頭を押さえた。

(ああ、もう……、頭が働かない)

 それでも、わかったことがある。悔しいが、認めざるを得ない。きっと俺は宮原を意識している。見た目とか好きなタイプだとか、そういうことだけではなく——少なくとも、宮原が笑みを見せる相手だってだけで、もうこんなに嫉妬を覚えてしまうほどに、感情が持って行かれてる。

 その事実に気付き、蓮はため息を繰り返す。

(さっきの写真の少年は、誰だろう?)

 アンニュイな表情を浮かべ、綺麗で少女のようにも見えるその顔立ち。ただの友人に、あんな顔を見せる男なのだろうか、宮原は。いや、そんなことはない。自分にだって少なからず優しさは見せてくれているが、そうそう簡単に笑ったりはしない男だ。だからきっとあの少年が特別——そうに違いない。そうでなければ、可笑しい。特別自分が和樹に嫌われているということになってしまう。

(それは……勘弁して欲しい)

 蓮は、その考えを否定する。嫌われているとは思いたくないし、さすがにそうした感情を向けられていれば、わかるはずだと思った。

(さっきだって、俺の体調を心配していたじゃないか)

 どうでもいい相手なら、そんなことはしないはず。いや、仕事だと言われればそれまでだが、少なくとも自分は、和樹の優しさを感じたのだ。

 だから、まだ大丈夫。和樹とはこれからどうにかなるにしても、この時点で終わりってことはない、はずだ。

「なんだ、これは……」

 いくら頭が痛いからって、この支離滅裂な思考はないだろう。こんな程度のことで、自分がここまで取り乱すなんて、蓮にとっては新鮮な心境だった。

(宮原に、俺は心を乱されている)

 そう、まるで——恋でもしているかのような。これは、そんな甘酸っぱい感情に似ている。

(俺が、宮原を意識している? それが、恋だって? バカバカしい)

 自嘲気味に笑って、蓮は布団をかぶった。そこで、またさっきのことを思い出す。和樹はスマホの画面を見て微笑んでいた。綺麗な少年の写真を見て、俺の見たこと無い顔をしていた——そう思ったら、胸が苦しい。

 蓮はゆっくりと深呼吸する。駄目だ、この思考は、良くない。きっと、雨のせいだ。頭の上にのしかかってくるような重圧に、チリチリと痺れるような痛みが、俺の思考を狂わせる。

 ゆっくりと息を吸うと、思考が落ち着いてくる。リラックスの効果があるのだろう、蓮は動揺したときは、とにかく深呼吸を心がけていた。

 何度か呼吸を繰り返し、蓮は不意に眠気に誘われる。薬のせいだろう、薬を飲むといつもそうだ。引き込まれるように眠くなる。

 そう思うと頭痛の元になっている雨音すら子守歌に聞こえてくる。それならそれでいい、と蓮は目を強く瞑り、眠ることにした。これ以上、余計なことを考えないように。

 

 

「……きろ、諏訪。起きろ」

 ゆさゆさと揺すられ、次第に覚醒する蓮。目をゆっくりと開くと、目の前に和樹の顔があった。

 相変わらず不愉快そうに目を細めているが、これはいつも通り。自分がよく知っている和樹であった。

 だから安堵して、蓮は体を起こす。それを確認し、和樹はカーテンの外に出て行く。

「そろそろ授業が終わる時間だ。支度して出て行け」

 そんな冷たいもの言いもいつも通り。そう思って安心している気持ちと、同時に寂しさが降り積もる。

(あの写真を見ていたような笑顔が俺に向けられることは無いのだろう)

 そう思うと、グッと胸を締め付けられる。和樹の笑みはそれくらい蓮を打ちのめした。初めて見たせいもあるだろう。あんな笑顔を見たら、誰だって戸惑ってしまうに違いない。だから、自分が今、心をこうして乱されているのは何も可笑しくはない。

(そうだ、見たことない表情を見せられて、ちょっと気迷っただけだ)

 落ち着け——宮原のようなタイプは、きっと面倒くさい。相手にしたら、きっと振り回される。だから、興味を抱いても、踏み込まない方がいいのだ。

 そう自身に言い聞かせて、蓮はこめかみを数回、叩いた。決してここで勘違いしないように。まさか、和樹に惚れたなんて、認めないように。

(認めてしまったら、もう後戻り出来なくなる)

 だから、認めては駄目だ。これ以上、深入りするな、と蓮は強く思った。

 

*      *      *

 

 梅雨が明け、回数は減ったが、それでも偏頭痛は治らない。未だに鎮痛剤を携帯しない蓮に、もう半ば呆れながら郁也は保健室に行け、と教室から追い出した。

 もうコーヒーを買いに行くのも面倒で、真っ直ぐに保健室に向かう。悔しいが、和樹に会いたいという感情を否定するのを蓮は止めた。

(別にそれならそれでいい。あの人を観察するのは面白い)

 ただそれだけだ。これは決して恋ではない。だからいいのだ、と蓮は思う。ここで逆に会わないようにしたら、変に想いが募って、恋になってしまうかもしれない。

 そうならないように、和樹に会えばいい。自分には保健室に行く正当な理由があるのだ、と蓮は開き直っていた。

「お前、成績がいいから許されてるが、あんまりサボるんじゃない。ここは休憩所じゃないんだぞ」

 そう冷たく言いながらも、和樹は蓮は鎮痛剤と水を渡す。

「いいか? その水全部飲むんだぞ。あと、そうだな、胃薬をやろう。一緒に飲めるヤツだ」

 そうして粉状の胃薬を渡される。

「お前、夜は同じ時間に布団に入るようにしろよ。携帯とか弄ってたら駄目だからな。リラックスして布団に入って——そうだ、寝るちょっと前にココアとか牛乳を飲むといいぞ。体が温まるし、よく寝られる」

 そんなことを早口で話しながら、和樹はベッドの支度をしている。

(後ろから急に抱きついたら、この人はどんな反応をするんだろう?)

 ふとそんな興味に駆られ、蓮は和樹をじっと見つめる。やはり良い体をしているな、なんて思う。あの細いうなじに舌を這わせたら良い声を出しそうだな、なんて思う。

 この感情が恋愛感情かはまだ認めたくないが、少なくともただの先生に対する感情以上のものにはなっている。あんまりこの状態が続くなら、いっそ強硬手段に出てもいいかもしれない。

「ほら、早く寝ろ。タオルケットじゃ寒かったら布団を出すから言えよ」

 そう促され、蓮はベッドに寝っ転がった。

(そうだ、ここにはこうしてベッドもあるしな)

 いつでもやろうと思えば出来るのだ——そう思うと、焦る気持ちは大分落ち着いてくる。

 そういえば、以前ほど不快そうな顔を見なくなった。もともと視力が低いのに、普段は眼鏡を掛けてないから、目つきが悪いのだ。こうして会いに来ても、前よりは和樹の表情が和らいだ気がする。だから、間違いなく二人の距離は縮まっているはず。

蓮が眠れるように、和樹は物音を立てずに静かに作業をしているようだ。そんな和樹の気遣いに、蓮は喜びを覚える。

(きっとそのうち……あの笑顔を俺に向けてくれる日もくるはずだ)

 そうしたら、そのときはもう自分の気持ちを止められないだろう。感情の赴くまま、和樹に向き合うだろう。それはきっとそう遠くない未来。

 それまでは今のままでいい。急いで関係を深める必要はない。まだ、和樹に対してはわからないことばかりなのだ。だから、一歩ずつ進んでいけばいい。

 薬のせいだろうか、うとうと眠気に誘われてくる。未来に希望を馳せ、蓮は眠気に逆らわずに、ゆっくりと瞳を閉じたのだった。

【Rainy days never stays Episode.1 完】

「Episode.2」以降の話は、イベントにて無料配布しておりますので
続編が気になる方は、ぜひお手に取ってみてください♪

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